下駄屋を継ぐと決めてから、1年半の間にしていたこと vol.1

以前の記事で、「大企業を辞めて、下駄屋の後継ぎになることを決意した日」についてお伝えさせていただきました!

この記事はそちらの続きとなるので、ぜひ前回の記事もご覧になっていただけるとうれしいです!


目次

私が下駄屋のためにできること

私が下駄屋の後継ぎになることを決意したのは2019年12月。

そして、大和屋履物店のリニューアルオープンは2021年5月。この間には1年半もの月日が流れる。

もちろん、この間に誰も予測していなかった新型コロナウイルスの流行というものが発生する。一見この期間はそれが影響したかのように感じるかもしれないが、私たちの中では最初からこの日程で決まっていたのだ。

当初、東京オリンピックは2020年の夏に行われる予定だった。なにを始めるにも、この行事が終わらないと進まないと考えたからである。私自身当時サラリーマンであり、その仕事でもオリンピック対応もあった。なにより、店舗改装の工務店も見つからないと踏んだのだ。

しかしながら、そんな考えも全てが無駄になった。謎の感染症の流行は私たちが外に出ることも、日本がオリンピックを開催することも、さまざまな自由を奪っていったのであった。

小倉家も私もやることなく家にいることを、お取り寄せグルメと飲酒でそれなりに楽しんでいた。それでも、一通りお取り寄せを楽しんだ時、進まないといけない気持ちになった。私たちはできることをコツコツとしていこうと、月に1回の定期ミーティングを重ねていったのであった。

この話合いにおいて「私が一番大切にしてきたこと」こそがこの記事で一番伝えたいことである。

それは「全員が思い描く方向性を統一すること」だ。

これを実現するための舵取りこそ、私ができることだと思った。私がやるべきことは自分のやりたいことを表現することではない。今の経営者と次の経営者の思い描く目指す姿を融合し、それを実現するための地図やストーリーを描くことなのだ。

そして、それが仕事としてワクワクして仕方がないことだった。

「下駄屋を下駄屋として残してほしい」

大和屋履物店は三代目である、小倉進さん、小倉ヤス子さんのお店である。

そして、これからは四代目の小倉佳子さんに代替わりを迎える。そして、佳子さんは私の義理の母だ。

そして、佳子さんの妹が江戸染色作家、小倉染色図案工房の小倉充子さん。

(小倉染色図案工房のHP制作は弊社で担当しましたので、ぜひご覧になってください)

そして私が大和屋履物店の五代目店主である。

非常にわかりにくい。
この説明を何度もするのだが、大抵は私と佳子さん、もしくは私と充子さんが夫婦と勘違いされることが多い。時に、大和屋履物店は若い胡散臭いコンサルタントに乗っ取られたという噂もたった。本来ならば誤解を解くために工夫をするべきではあるが、面白いからあえて図示せずこの難解さのまま放置している。

話しが脱線したが、私が今回するべきことは、三代目の想いを引き継ぎながら、四代目に代替わりをする手助けをすることである。そのためには、三代目、四代目、五代目が共通の想い、つまり同じビジョンを持っていないといけないと思う。その中で、それぞれが個々の強みを発揮して経営していくことこそが大切なのだ。

私は一番最初に三代目店主のヤス子さんに話を聞いた。

「大和屋(履物店)、どうなってほしいですか。」

「下駄屋が下駄屋として残っていってほしい。」

ヤス子さんの答えはとてもシンプルなものだった。

「悪いことは言わないから、辞めるか考え直した方がいい」

ヤス子さんの発言はシンプルだが、非常に想いの詰まった発言だと思う。

仮に、経営者として利益を最大限に出すことを目的にした場合、神田神保町の靖国通り沿いの一角を下駄屋として残しておくよりももっと有効な使い方ができるのではないかと考えることは自然のことである。

少し話が脱線するがお付き合いいただきたい。
先日、赤羽で旧友と飲んでいたら隣の席の50代男性の方に話しかけられた。すこし仲良くなり会話をしていると「お兄ちゃんの仕事は何しているの?」と訊かれた。私は「下駄屋の経営です。」と答えたのだ。(正しく言うと違うのだが、説明が複雑になるのでこう伝えることがある。)

その男性は「悪いことは言わないから、辞めるか考え直した方がいい」とアドバイスしてくれた。

このアドバイスは間違いではないと思っている。私にとっての下駄屋をやる目的が”お金を稼ぐこと”であるならば別の手段を取った方がいいからだ。しかし、私の場合目的は違うのでこれを鵜呑みにすると間違えた方向に導くかれてしまう。他人にアドバイスをする場合、その人の思い描く理想の姿や現在の状況についてしっかりと把握することが大切だと思う。

つまり、私の役割においては、三代目・四代目それぞれの大和屋に対する想いや充子さんが実家である大和屋に対する想いを正しく理解した状態で話を始めないと取り返しがつかないことになる。これを疎かにすると、すっかり間違えた地図を描いてしまう危険性がある。

ヤスコさんの「下駄屋が下駄屋として残ってほしい」という想いには移りゆく街を見てきた中での想いもあるはずだ。仕切りに昔からのお店がなくなってしまった。店主同士で情報交換していた井戸端会議も無くなってしまったのであろう。

さらには「何があっても下駄屋を売るんじゃねえぞ!」と二代目に言われ続けたとヤスコさんはしきりに話してくれた。ヤスコさんは先代の想いを受け継いで実行しているのだ。

この想いは私たちの代で終わらせるわけにはいかない。私たちはこの「ビジョンの共有」にたくさんの時間を割いた。たくさんの議論を重ねた。議論の度に、佳子さんと充子さんに宿題として「大和屋の歴史について振り返ること」と「大和屋がどんなお店になったらワクワクするか」について考えてもらった。

それを月に1回共有しては、もっともっと深掘りしていった。

なぜそう思ったか。なぜそう感じたのか。なぜ大和屋でそれができると思ったのか。

このなぜについても全員で考え共有していった。

佳子さんから出た思い描く将来像は「人が集まるお店になってほしい」「神保町を知ってもらうきっかけになってほしい」。

充子さんからは「日本の素晴らしいもの、有形・無形に関わらず残していくことに貢献したい」。

そしてこれに三代目の「下駄屋を下駄屋として残す」という想いを重ねた。

導き出された結論は「文化を継なぐ店」というビジョンを掲げることになった。


つづく

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この記事を書いた人

船曵竜平のアバター 船曵竜平 合同会社reshack代表

合同会社reshack代表。
明治大学を卒業後、大手生命保険会社勤務を経て独立。
大和屋履物店(下駄屋)や小倉染色図案工房(アーティスト)のサポートを通じ、日本の文化を継なぐ活動をするために起業。

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